令和2年7月豪雨災害 球磨川氾濫・豪富被害御見舞申し上げます。
(ご案内)
フェースブックへのメッセージ、コメントも歓迎です。ご要望曲を次回お聴きいただきます。
- イベント名
- 第73回蓄音機を楽しむ会
- 期日
- 2020年9月27日
- 場所
- 五福公民館
- 住所
- 860-0041熊本県熊本市中央区細工町2丁目25
平成版・名曲新百選選定中
五福公民館に場所を移して6年を数えます。熊本市立博物館で例会を行っていた時に活用してきた、大矢野百選。その77枚のレコードを毎月の例会「第2部」で順次、全てのレコードの両面からエントリーした、151曲に投票して下さい。令和の時代に人気の高い100曲を、零和に伝える昭和の名曲新百選とするプロジェクトです。フェースブックへのメッセージ、コメントも歓迎です。ご要望曲を次回お聴きいただきます。
※新型コロナウイルスの関係で、公民館が8月中の全講座への部屋の貸し出しを中止しましたので、8月23日の開催予定でした例会は中止を8月6日に決定しました。9月27日に行うようできればよいのですが、例会の休止を継続します。再開・内容が決定したらフェースブック・ページで告知します。
2012年02月14日
ああたたちゃ、熊本城マラソンが19日に有っとか知っとるかい
日本三大名城『銀杏城』
熊本のシンボルは銀杏の樹であり、熊本県のマークは銀杏の葉をカタカナの「ク」に模したデザインは、熊本市のマークはひらがなの「し」に銀杏の葉を模したデザインになっています。
現在の熊本城の場所は、中世に既に千葉城(城主は出田氏)があった場所で、それは地名として残っていますし。
戦国時代には佐々氏らの隈本城がありました。
戦国時代が終わって加藤清正がここに天守を持つ熊本城を建設したわけですが、城内には大きな銀杏の樹があり果たしてこれは加藤清正が『銀杏城』と名付ける前からあったのか、その時に植えられたのか。
熊本城は別名『銀杏城』として親しまれているわけですが、これは有事の際、食料に困らないように城内随所に植えられた銀杏の木に由来しているということです。
また清正は「天守閣と、その前にある銀杏の木が同じ高さになった時に異変が起こる」と予言。1877年2月19日。西南の役で薩摩郡が入城する前日に謎の火が出て消失しました。
機密を隠すために官軍が自ら火を放ったと言われていますが、だったら籠城して戦ったというのは何故だろうという事になると思います。
その籠城で、城内の銀杏や、食べられる実のなる木々、壁を壊すと中には干し魚などの乾物がいろいろと蓄えられていました。
熊本城築城400年と祝ってイヴェントが行われるのが常ですが、お城としては1480年には既にあったと言うことです。恐らく起伏の多い熊本の地形によるオーパスポイントなのでしょう。

西南の役で消失して、現在は大天守、小天守。いくつかの櫓が実際はあるわけですが、屏風絵で残された城内には20とも、40とも言われる大小の櫓があったそうです。
城内を囲む城壁は、迷路の様に入り組んでいた上に『武者返し』という威圧する石垣組、大きい意思の石垣や、綺麗に整った石垣と統一感の無いわけは、目の錯覚を起こさせる効果を狙ったものだったのでしょう。
外からは天守閣がよく見えるのに、櫓が天守閣に思えたりと城内に入るとどれが天守閣だか分からなくなります。
熊本のシンボルは銀杏の樹であり、熊本県のマークは銀杏の葉をカタカナの「ク」に模したデザインは、熊本市のマークはひらがなの「し」に銀杏の葉を模したデザインになっています。
現在の熊本城の場所は、中世に既に千葉城(城主は出田氏)があった場所で、それは地名として残っていますし。
戦国時代には佐々氏らの隈本城がありました。
戦国時代が終わって加藤清正がここに天守を持つ熊本城を建設したわけですが、城内には大きな銀杏の樹があり果たしてこれは加藤清正が『銀杏城』と名付ける前からあったのか、その時に植えられたのか。
熊本城は別名『銀杏城』として親しまれているわけですが、これは有事の際、食料に困らないように城内随所に植えられた銀杏の木に由来しているということです。
また清正は「天守閣と、その前にある銀杏の木が同じ高さになった時に異変が起こる」と予言。1877年2月19日。西南の役で薩摩郡が入城する前日に謎の火が出て消失しました。
機密を隠すために官軍が自ら火を放ったと言われていますが、だったら籠城して戦ったというのは何故だろうという事になると思います。
その籠城で、城内の銀杏や、食べられる実のなる木々、壁を壊すと中には干し魚などの乾物がいろいろと蓄えられていました。
熊本城築城400年と祝ってイヴェントが行われるのが常ですが、お城としては1480年には既にあったと言うことです。恐らく起伏の多い熊本の地形によるオーパスポイントなのでしょう。

西南の役で消失して、現在は大天守、小天守。いくつかの櫓が実際はあるわけですが、屏風絵で残された城内には20とも、40とも言われる大小の櫓があったそうです。
城内を囲む城壁は、迷路の様に入り組んでいた上に『武者返し』という威圧する石垣組、大きい意思の石垣や、綺麗に整った石垣と統一感の無いわけは、目の錯覚を起こさせる効果を狙ったものだったのでしょう。
外からは天守閣がよく見えるのに、櫓が天守閣に思えたりと城内に入るとどれが天守閣だか分からなくなります。
Posted by 武者がえし at 02:51│Comments(0)